私の頭の中?それとも心の中?
消える事の無いこの想いを👐
おはようございます、こんにちは、こんばんは。ノイポチです。
私は物心が付いた頃から体の少しの変化にも過敏になり、現在に至っては心気症として長ーいお付き合いとなっています。
心気症における病気への恐怖から死の恐怖を連想する事もあるのですが、今回のテーマである「死」は人が生きる、死ぬ、意識がある、ないと言った繋がりの無い単体の表現です。
因みにタナトフォビア(死恐怖症)という言葉が存在しますが、これは元来人間が持ち合わせている「死の恐怖」に「気付くか気付かないか」といった単純な視点から生まれる差の様な気がしています。
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私の中に単体の「死」が刷り込まれたきっかけは、中学1年生の時に経験した「友人の死」ではないかと思います。
今振り返ると、当時の私は彼の死を理解できないまま全てが淡々と過ぎて行き、「人が死ぬこと」「亡くなった彼の姿」「寂しさ」等多くの情報も一気に押し寄せ、成長過程の心と脳では処理し切れない出来事でした。
20年程経った現在でも驚く程鮮明に一コマ一コマが記憶されており、未だ消化できていない何かが身体中を彷徨っている気がしています。
私の場合、
単体の死を考えるタイミングは定期的に波の如く訪れます。
不安障害が悪化した時だけではなく、元気な時でもふと考えてしまう事があります。
それは、
自分の死だけではなく、周囲の人の死も含めて。
身の回りの人達が死んでいく事に対して恐怖を感じ始める時、決まって「死んだらもう二度と会えなくなる」という当たり前の感情に飲み込まれ「彼らとの想い出」に浸り感傷的になるのです。
「私は○○の死に対して気が触れるのではないか?」「○○とのこれまでの記憶が多ければ多い程、それは重圧に変化するのではないか?」「2度と会う事はできない。」等答えの出ない疑問や感情に自身の体調を更に悪化させる事もあります。
そんな周囲の人の死は毎回「就寝前の布団の中」で、闇の中へ引き摺り込むかの如く私に襲い掛かります。
これだけでも心の芯を相当磨り減らしているにも関わらず、矛先は自身の死へ向き始めるのです。
自身の死に関しては、何ら変哲の無い風景の中で他人を介して私を襲ってきます。
例えば電車の中では、
ふと私以外の乗客達は死への恐怖を抱いていないのか?それとも気付いていないのか?はたまた他人事なのか?死を超える絶対的な何かを持ち合わせているのか?
といった言葉が身体の中を駆け巡ります。
死後の目覚める事のない「無」状態に対する想いや感情は、彼らの中には存在しないのだろうか?と疑問に思うと同時に、私自身は恐怖や不安から筋収縮を感じる程の状態に陥ります。
もし死に対して大した感情が沸かないという人が居るならば、私は心の底から幸せな事だと思ってしまいます。
何故なら、「死」に気付いた瞬間から掴み処のない疑問や感情が溢れ出し、そこを抜け出す事は至難の業となるからです。
私を例に取ると、
死後は寝ている時の様な無の状態なのか?という疑問に囚われてしまった事で、就寝時このまま目覚めなかったら…に意識が奪われてしまい、不眠を起こし自身のパニック障害を悪化させた事もありました。
寝ている間の意識の無さに恐怖を抱いている訳ではなく、その状態がずっと続くという未知の状態に恐怖を抱いているのです。
恐怖はループとなり、その中を「ああでもない、こうでもない」と思案しながらこれまで回り続けてきたのです。
このループを断ち切る為の絶対的な答えは無く、各人の解とも呼べないであろう想いの下騙し騙し進んでいくしかないのです。
つまり、
仕方が無いのです。
気付いてしまったからには仕方が無いのです。
こんな言葉で纏めたくはないですが、結局の所「仕方が無い」しか出てきません。
人は必ず死ぬからこそ肉体・精神・意識が与えられ、人生という大きなチャンスに触れる事ができる様になっていますが、
チャンスを生かして死の恐怖を乗り越えるか、チャンスを生かしつつ死の恐怖と上手く付き合っていくのか、チャンスを生かせず死の恐怖に飲み込まれるか等選択は結局自分次第なので仕方が無いのです。
皆さんはどんなパターンで死と生に向き合われているのか、非常に興味があります。
私は、死への囚われの中にも「生き果てた」と思える瞬間を作り上げたいです。
没頭感を味わった瞬間を少しでも多く積み重ね、その上で「死の恐怖」に負ける事があるならば大いに許容したいと思います。
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詰まる所、
焼肉は旨いし、ビールも旨い、そしてビンテージにもまだまだ浸りたいのです。
死の感情に打ち勝って心の声が漏れてしまいましたが、
死への恐怖心の点数が際立って高い分、どこかできっとバランスが取られているはずです。
そう信じさせて下さい。
しかし、
私と違い折り合いが付く事は今後一切無いという人は、死に翻弄されながら生きるという覚悟を決めた人なのかもしれません。
それはそれで刺激のある人生ではないでしょうか?
先人には思い付かなかった「死の囚われの落とし所」が見つかるかもしれません。
因みに私は否定しませんよ、その道に立っていた人間の一人ですからね。
最後になりましたが、一つだけご提案を。
死に対してどんな恐怖を抱いていようとも先ずは、
「人が死ぬ直前に後悔する事」リストだけはクリアしませんか?
体と心に少しでも余裕がある際に、折角なので1つずつやっていきましょうよ。
「無の状態への恐怖」に加えて「後悔」まで伸し掛かる事だけは、避けたいものです。
P.S.
死だけに限らず、
似通った考えを持った人に巡り合う事が、安心・納得・踏み出す方向をもたらしてくれると私は信じています。
リアルな人でなくとも、文章として出会う事もあると思います。
今回もご覧頂き、ありがとうございました。
ボチボチといきましょー。
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